木下惠介は才能だけではなく、彼をとりまく人々にも恵まれていました。
弟である忠司、妹である芳子はともに映画界に入り、輝かしい功績を残しています。
映画音楽家・木下忠司 きのしたちゅうじ
1916~2018
木下惠介の弟。
浜松一中(現浜松北高等学校)から武蔵野音楽学校(現武蔵野音楽大学)へ入学。卒業後、同年末に出兵。復員後、惠介が監督した『わが恋せし乙女』(1946年)で作曲家としてデビューして以降、惠介の全映画作品の音楽を担当した。
代表作として『喜びも悲しみも幾年月』、テレビドラマ『水戸黄門』の主題歌を手がけた。
脚本家・楠田芳子 くすだよしこ
1924~2013
木下惠介の妹。
浜松市立高等女学校(現浜松市立高等学校)から実践女子専門学校(現実践女子大学)に進み、惠介の蒲田の家に同居するほどかわいがられ、映画と脚本に関するセンスを身に付けた。
『この広い空のどこかに』(1954)で脚本家デビュー。『夕やけ雲』、『涙』、『塩狩峠』、テレビドラマ『氷点』等の脚本を執筆した。
1944年に楠田浩之と結婚。
キャメラマン・楠田浩之 くすだひろし
1916~2008
木下惠介の義弟。
1934年(昭和9年)、松竹キネマ蒲田撮影所(現松竹)に入所、撮影助手となる。小原譲治、厚田雄春らに師事し、惠介監督第1作『花咲く港』で撮影監督デビュー。以降、『なつかしき笛や太鼓』(1967年)まで木下作品の撮影を手がけた。
日本で最初のカラー長編劇映画『カルメン故郷に帰る』、回想シーンを白い楕円形の枠で表現した『野菊の如き君なりき』等、惠介の実験的手法を実現した職人的キャメラマン。
父・周吉 母・たま
浜松市伝馬(現浜松市中区伝馬町)の江間殿小路(通称:うまいもの小路)で食料品店「尾張屋」を経営していた。両親ともによく働き、使用人よりも早く起きて仕事をしていた。その姿勢は惠介に強い影響を与えた。