日本を代表する映画監督の木下惠介は、1912(大正元年)年12月5日、浜松町伝馬(現浜松市中区伝馬町)に生まれました。
浜松尋常高等小学校(現浜松中部学園)、浜松工業学校(現浜松工業高等学校)と進学し、オリエンタル写真学校を経て松竹キネマ蒲田撮影所(現松竹)に入所します。島津保次郎監督のもとで修業を積み、『花咲く港』で監督デビューします。40年以上に渡る監督人生の中で、『カルメン故郷に帰る』、『二十四の瞳』、『女の園』、『喜びも悲しみも幾歳月』等、日本映画史に残る作品を多く残しました。
時代の空気を敏感にとらえ、英雄ではなく市井の人々を見つめ続けた作品は、現在も多くの人々に愛されています。
経歴
大正元年(1912) | 12月5日、浜松市伝馬町にあった江馬殿小路の食料品店に生まれる。 | |
大正7年(1918) | 浜松尋常高等小学校(現浜松中部学園)入学。 小学校3年生の頃から、近所の映画館「大勝館」に通い始め、映画を見るようになる。 | |
大正14年(1925) | 浜松工業学校(現浜松工業高等学校)入学。紡織科を選んだが性に合わず、映画の道を志す。 | |
昭和3年(1928) | 東京の日比谷写真館、工藤写真研究所で修業。オリエンタル写真学校で学ぶ。 | |
昭和8年(1933) | 松竹キネマ蒲田撮影所(現松竹)に入所。現像部を経て、撮影部へ。桑原昴キャメラマンの助手となる。 | |
昭和11年(1936) | 松竹キネマ蒲田撮影所が大船撮影所へ移転する。島津保次郎監督に引き抜かれ助監督部に移る。 | |
昭和15年(1940) | 召集令状を受け、中国各地を転戦。 | |
昭和16年(1941) | 眼と脚を負傷し野戦病院に入院。召集解除となる。 | |
昭和18年(1943) | 第1回監督作品『花咲く港』公開。 その年の最も優れた新人監督に贈られる山中貞雄賞を黒澤明監督と共に受賞する。 | |
昭和19年(1944) | 『陸軍』公開。ラストシーンで息子を思い、走る母親の姿が陸軍から女々しいと批判される。松竹大船撮影所に辞表を出し浜松に帰る。 | |
昭和20年(1945) | 大船撮影所長の意を受けて来た中村登監督から慰留され、籍を残しておく。 | |
昭和21年(1946) | 戦後第1作『大曾根家の朝』公開。惠介初のキネマ旬報ベスト・テン(以降キネ旬)第1位。 『わが恋せし乙女』公開。映画音楽を初めて手がけた弟・忠司の曲も好評を博す。以後の全監督作において忠司とコンビを組む。 | |
昭和26年(1951) | 『カルメン故郷に帰る』公開。日本初の総天然色劇映画第1作。 8ヶ月間に渡ってのヨーロッパ遊学。ルネ・クレール監督、ジャック・ベッケル監督の撮影現場を見学する他、古典劇の上演をする劇場にも通う。 | |
昭和29年(1954) | 『二十四の瞳』『女の園』公開。キネ旬の第1位、第2位となる。 『二十四の瞳』は、「ゴールデングローブ賞外国語映画賞」等国内外の映画賞を40以上獲得する。 | |
昭和30年(1955) | 『野菊の如き君なりき』公開。白い楕円形の枠で囲み回想シーンを表した手法を用いた。 | |
昭和32年(1957) | 『喜びも悲しみも幾歳月』公開。主題歌が大ヒット。 | |
昭和35年(1960) | 『笛吹川』公開。白黒画面の各所に彩色された特殊色彩映画。 | |
昭和39年(1964) | 前後編からなる第42回監督作品『香華』が大ヒット。 しかし、中国を舞台とする次作『戦場の固き約束』の企画が流れ、松竹を退社。 テレビ界へ転進、「木下惠介劇場」(連続テレビドラマ)が始まる。 | |
昭和40年(1965) | 有限会社「木下惠介プロダクション」を設立。 | |
昭和42年(1967) | 「木下惠介劇場」から「木下惠介アワー」にタイトルが変更。変更後第1作『女と刀』は最高視聴率が30%を超える大ヒットとなる。 | |
昭和53年(1978) | 14年ぶりに松竹で撮った『衝動殺人 息子よ』公開。 | |
昭和63年(1988) | 『父』公開。遺作となる。 | |
平成10年(1998) | 12月30日 86歳にて逝去。墓所は鎌倉・円覚寺。 |